二代目 日野浦 勇次郎

寝る時間も惜しんで仕事に徹した。

六男三女の三男として生まれた。戦時中、衛生兵として微兵されたが訓練中に終戦。帰郷し、父(初代新太郎)の元で鍛冶屋の修行をする。
その後結婚し長女・長男(3代目司)を授かった。食べていくのにやっとだった当時、給与を上げて欲しいと初代に頼んだが、「米をやるから我慢しなさい」と言われ、妻子を養っていかなければならないこれからに不安を感じ独立を決意。勘当同然で家を出た勇次郎は姉の助けでスプリングハンマー・グラインダー砥石を購入し創業。兄に問屋を紹介してもらい僅かな設備、お客からの始まりだったが、当時は作れば物が売れた時代。朝日が昇る前から夜は周りが寝た後も仕事をし続け、周りからは「気違い鍛冶屋」と呼ばれるくらい寝る間も惜しんで仕事に徹した。
行年85歳まで現役を全うし、99歳で他界した。

 三代目 日野浦 司

鋼の研究に費やした時間は計り知れない。

18歳の時に鍛冶の仕事を嫌い、大阪でサラリーマンを4年間していたが、”父・勇次郎の強い希望により”会社を辞め鍛冶の道へ入る。
以来、独学で鍛造・熱処理・鋼の知識・冶金学を学び、技術・技能を究めてきた。「失敗をした数なら他の人には負けません。」と言うとおり、何度もの失敗が高品質な刃物を作る基礎となっている。
また海外の展示会にも出展しており、国内外ともに高い評価を得ている。これからは大量生産法ではなく、高品質小ロットの時代。手作りの温かさや作り手のポリシーが込められた昔ながらの製法で真の打ち刃物に情熱を燃やし続けている。4代続く「味方屋」ブランドとは別に「越後司」のブランドを確立し、不動のものとするまで挑戦は終わらない。

 四代目 日野浦 睦

今の時代にあったものづくり。

昭和56年生まれの日野浦睦。工業短期大学を卒業し、修行の為他県の刃物工場の就職が決まった矢先、3代目が病になり卒業後すぐに鍛冶の道に入る事を決める。
初めは2代目勇次郎と4代目睦の2人で仕事を支えていたが、3代目司の病が治り今に至る。現在は、「味方屋」を一貫して任されており、鍛冶屋が減り作れなくなった特殊鉈なども、得意の自由鍛造で作ることでユーザーに喜ばれている。
日本の伝統技法「鍛接」による鋼付けから完成まで一貫した手仕事を徹底し、刃が欠け難く・研ぎやすく・長く切れ・使いやすい刃物造りを目指す傍ら、新たに包丁の製作や人気デザイナー・アニメとのコラボ製品を製作。日本国内に留まらず海外へ日本の伝統技術発信に取り組んでいる。
小さな企業でも魅力あるものにする為、工場の魅せ方や若い人の育成にも力を入れている。今は味方屋で腕を磨き、司ブランドを継承する為日々知識や技術の習得に励んでいる。

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